「奴らの様子はどうなっている?」 協会支部の室内、待合室から扉を一つ隔てたスタッフルーム。 そこに設置された大きなソファに深々と腰を下ろした紫苑が、閉じられた扉に目を向けた。 「全員とも、隣の部屋で寝ているさ。それはもうスヤスヤだ。本当に疲れていたんだろうな」 彼の隣に座っている葵、いや葵の姿をしたクレアが、そう言って息を吐いた。 その目の前に、秋津が六つのコーヒーカップを並べていく。 その内の一つを、クレアの手が押し返した。 「……私には不要だ。葵の身体にもかなり疲労が溜まっているようだ。カフェインなど飲まずに早く休ませてやりたい」 「あー、眠れなくなっちゃうもんねぇ……」 秋津がそのカップを自身の手元へと引き戻したところで、その背後で宙に浮いた魔人が口を開いた。 「我が輩も遠慮しておこう。地上の飲食物は魔人たる我が輩には不要なものでな」 「残念。美味しいのに」 それから相手は、どこか困ったように周囲を見回した。 「ところで本当に、我が輩も同席していいのだろうか? 何やら重大な話をするように見受けられるが……」 「ああ、構いませんよ。ただし、絶対にあの子たちには言わないでくれれば、という条件付きですが」 カップの中身に口を付けて美味しそうに息を吐く、石田。 「その通りッス。今から始まるのは、ちょっとばかり大人の会話なんス」 面白そうに飄々と笑う、クロード。 それら六人が集まった、この深夜0時前。 「では皆さん、この度はお疲れさまでしたー!」 乾杯でもするかのようにコーヒーカップを掲げ、それから自身の口元に運んで一気に飲み干す秋津。 だが、それに追随したものは石田とクロードだけだった。 「して、結局のところは一体何がどうなっておるのだ? 我が輩も先ほどの話は一応聞いていたが……」 どこか困惑したかのように、室内でも宙に浮かぶソウルジャグラーがつぶやいた。 「んー、魔人さんに説明するとね」 言いつつ、秋津が懐より一枚の紙を取り出した。 それは数日前、クレアに見せたものと同一のもの。 「今回の事件の全ての発端は、津堂悠の記憶のフラッシュバック。それにより一年前の事件の記憶と、同時にクオリアであるサイを使える事を思い出してしまった。速やかに彼女の記憶を再消去し、暴走を続ける彼女を止めなければならない」 普段よりいくぶんか落ち着いた声で読み上げた支部長は、ほうと息を吐いてカップに口を付けた。 「大体はそれで全部。で、今まで私たちは、悠ちゃんを止めようと機会を伺っていたの」 「……ああ。アイツらは悠が倒れた原因を、魔界からやってきた堕天使だか何だかに襲われたから、だと思っていたようだけどな」 「彼らにはご愁傷様と言うよりありません。タイミングが悪かったんですよ」 カップの中で静かに揺れる黒い液体を飲み干した石田が、余ったカップの内一つを手に取った。 「ふむ。……しかし、暴走というには幾分か大げさすぎはしないだろうか? あの少女が記憶を取り戻したくらいで……」 首をかしげる魔人に、秋津はカレンダーを指さした。 「ゴールデンウィーク……こう言って魔人さんに通じるかどうかは分からないけど、少し前の五日間のお休みの間に、街中の五か所に例の大きな穴が出来たの」 「……。もしや……!」 「そ。悠ちゃんは毎日毎日、クロードさんを襲撃していたの。あの『サイ』を使ってね」 「彼がわざと悠さんの目の前に姿を現して、ちゃんと記憶が消えているか確認していたのですが、ここまで時間がかかるとは思ってもみませんでした」 二つ目のカップも飲み干した石田が、ほうと息を吐いた。 「魔人さんも見たでしょ? 悠ちゃん、普段の様子からは想像出来ないほど、冷静さを失っちゃってて」 「ええ。この不安定な状態なままだと、いつ記憶が偶発的に覚醒して他の人を巻き込んでしまうか分からなかったため、早急に手を打つ必要がありました」 「……だが、君の力とやらで数日前から既にあの少女の記憶を消していたのであろう? それなのに何故……」 「僕の『ストレ』は、病気に対するお薬のようなものなんです。強固な記憶には、一定の時間を置きつつ何度か継続して使用しないと完全に消しきれません」 コーヒーがよほど美味しかったのか、どこか物足りないとでも言いたげに空のカップを振りつつ石田がつぶやくように言う。 「悠さんの場合、それほどまでに本人が忘れたくない記憶だったのでしょうね」 「……ああ。つい先月までは、クオリアを使えるという事すらも忘れていたはずなのにな」 カップには手を付けず、テーブルの上で手を組んだまま紫苑が天井を見上げた。 「ところで石田くん、悠ちゃんの記憶は今度こそ完全に消せたんだよね?」 「はい。むしろあれで無理ならば、僕にはそれこそ何も出来ませんよ。ただ今後の事を考え、とある事についてだけはこのままにしておきました」 「ならいいけど……。そのために、魔界からの何ちゃらに見て見ぬ振りをしていたんだから」 「む? あの少女たちは、その件が君たちに伝わっていないのではないかと疑っておったぞ」 「……知っていたさ。最初からな。そこのそいつからのタレコミでな」 言いつつ、紫苑がやはり飄々と楽しそうにこちらの様子を眺めているクロードへと目を向けた。 「奴らがこのまま悠の倒れた件を嗅ぎ回るよりは、幾分マシだったからな」 「言い方は悪いですが、魔界の彼らを僕たちは時間稼ぎに使わせてもらいました。本当にご愁傷さまです」 「何にしろ……本当に危なそうだったら俺が引き受けるつもりだったがな」 コーヒーのカップに口をつけながら、紫苑。 「奴らの契約、要するに約束事に対する執着心は異常だからな。つまりは、いきなり最悪の事態が発生する事はそもそもなかったわけだ」 「でも。心配だから毎晩見に行ってたんでしょ? 白斗くんに時間止められて、何も出来なかったみたいだけど」 中身の減ったカップに茶色の液体をつぎ足し、その脇にミルクの入ったポッドを置く。 「……」 「っていうか、紫苑くん? さっきの話! 私の可愛い教え子に腹パンするなんて、一体何考えてるのかな? ねぇ?」 「知るか。あの状況ではああする事しか出来なかった」 面倒そうに舌打ちした彼が、小さく息を吐いた。 「それとも、これをいい機会だと思って奴らに全てを話すか?」 「……」 「あの四人……『保護対象者』たちに」 その言葉で、その場の魔人以外の全員の表情がどこか険しくなったように見えた。 「……何にせよ、俺としてもこのまま奴らに黙っておくことに気乗りはせんがな」 「……。江ノ島さん(……・・)はどう思います?」 「……その名前で呼ぶな。そいつは死んだ。もういない」 周囲の大人たちよりも幾分低めの葵の姿をしたクレアが睨むと、石田は慌てて手を振った。 「おっと、ではクレアさんは……」 「……もう夜も遅い。葵の身体に差し支えるから私はこれで寝る」 だが彼女はそれには答えず、そのまま出入り口の扉の奥へと消えてしまった。 「……」 そしてその姿を目で追っていた人物は、小さく舌打ちしようとし――途中でやめ、その後を追うように席を立ち上がった。 スタッフルームから一枚の扉を隔てた、待合室。 普段そこを照らしている蛍光灯の明かりは無く、室内は薄闇に覆われていた。 そして備え付けられたソファの上で寝息を立てる、三つの人影。 彼らの身体には薄手のタオルケットがかけられていたが、疲労のせいか目を覚ますものは誰もいなかった。 「……」 その人影は音を立てないように室内をゆっくりと歩き回りながら、一人一人の寝顔を確認し、全員を回った時ふと小声でつぶやいた。 「……済まない」 その人物は部屋の中央に立ち尽くし、小声で、しかしはっきりとつぶやいていく。 「済まない……済まない……!」 その両の瞳からは、いつしか涙がこぼれ落ちていた。 嗚咽を漏らしつつも、ただただつぶやく。 そして、その背後にはいつしか一つの人影が立っていた。 「……そう気に病むな」 「……!」 そこで背後の人物の存在に気付いたクレアは、ハッとして振り返る。 「目が覚めれば全員が全員、全て忘れている。それこそ文字通りな」 背後で腕を組んでいた紫苑は、そのまま近くの壁に寄りかかった。 「……それでも、それでも私は……アイツを……葵の事を裏切ったんだ……!」 小声で、そして涙声を混じらせつつ、彼女は吐き出すように言う。 「いつもいつも、私が守ってやると言っておいて……本当に大事な時にはこのザマだ……!」 「ああ、そうだな。だが、そうせざるを得なくなった原因の一つは、紛れもなく俺だ」 そこで壁から背を離し、足音を立てないように注意を払いつつ、彼女の横に立った。 「もしあの場に俺がいなかったら、お前はどうしていた? クレア、いや、――」 ちょうど深夜0時を告げる鐘が鳴り、紫苑の言葉はかき消された。 「だから、恨むなら俺の事を恨め」 そのまま建物の外に出た紫苑の顔に、冷たい夜風が吹き付けた。 時間帯のせいもあり、周囲は街灯すら満足に点いていない暗闇に包まれていた。 「む、どこへ行くのだ、そこの少年」 無言で頭上を見上げると、例の魔人がマントをなびかせながら空中に浮かんでいた。 「ただの散歩だ」 短くそう返し、適当な方向へと歩き出そうとする。 「一つ問わせていただきたい」 「好きにしろ」 心底どうでもいいとばかりにそう返し、近くの路地裏へと足を向ける。 「君は、魔界の『魔女』を知っているか」 「……。それが何だ」 小さく舌打ちし、歩みを止めて頭上の相手を見上げる。 それを知ってか知らずか、相手は真剣な表情で続ける。 「魔界の『魔女』、またの名を『リバースクイーン』」 「……」 「そのお方が与える強大な力、君たちいわくクオリアは、世界の理すらをもねじ曲げる。言うなれば……そう、『不老不死』のクオリアだ」 そこで再度大きく舌打ちし、面倒だとばかりに頭上の相手を睨み付ける。 「君は、いや、あなたは……?」 「……」 紫苑は無言で近くに落ちていた空のガラス瓶を拾い上げ、それをアスファルトの上へと叩き付けた。大きな音と共に、大小のガラス破片がその場に散らばる。 その内の最も大きな破片を拾い上げると、一瞬のためらいもなく自身の手首を掻き切った。 赤い一筋の線から見る見るうちに赤い液体がこぼれ落ちていく――が、数秒もしないうちに周囲の暗闇が傷口に集まっていき、いつしかそこには何もない素肌が残るのみだった。 「俺の『これ』が実は異能力ではなく、クオリアだと言ったところで何になる? 忘れろ」 ガラス破片をその場へと放り投げ、そう告げる。 そこでようやく相手は追ってこなくなり、同時に紫苑の姿も真夜中の静まり返った街の中へと消えていった。 「と、いうわけで!」 「早くしてくれよねーちゃん……ふぁあ。あー、クソ眠い」 大口を開けて欠伸をした光輝の欠伸が移りそうになり、悠はそれをこらえつつ息を吐いた。 せっかくの日曜だというのに、四人全員が何故か上司に呼び出されていた。 昨日、魔界からの来訪者を撃退したばかりで疲れているというのに。 「いや、ごめんごめん。ちょっと本部から緊急で用事が入っちゃって。全員の所持能力の点検、なんだって」 やたら笑顔を浮かべながら手を振る秋津に、悠は再度ため息をついた。 「ええと、光輝くんは異能力のトリッキーアートで、葵ちゃんがクオリアのソウル、っと」 一人一人を受け付けのカウンター前に呼び出し、手元のメモに何かを書き込む。 「ふぁあ……そうそう」 「ねぇ、こんな分かり切った事でせっかくの休みに呼び出されてるのに、本当にお金とか出ないの?」 何やらペンを忙しく走らせる秋津の眼前に、葵が勢いよく両手をついた。 「あー、そうだ。これ終わったら全員に、あのどでかパフェおごってあげるから、それまでもうちょい我慢我慢!」 その提案ですら今の葵を感激させるには至らなかったようで、彼女はしかめっ面を浮かべたまま体勢を元に戻した。 「あー、毎日毎日呼び出されるわ、明日からまた学校が始まるわ、ホント最悪! クレアもそう思うでしょ?」 『……ああ、そうだな』 「まあまあ。……で、白斗くんはクオリアのアクシスクロッカー、と」 「……そうなります」 半分寝ぼけたままうつらうつらしていた彼が、それを口にするなり真後ろのソファに倒れこんだ。 「そして最後に……」 そこで上司の表情がどこか真剣さを増した……ように悠には見えた。 「悠ちゃんのは異能力のイージスと、クオリアのサイ、でいいんだよね」 「そう」 何を当たり前のことを言っているのかとばかりに、短くつぶやく。 「いやぁ、昨日の死神、まさか悠ちゃんがサイ使って全部撃退しちゃうとはねぇ。お手柄お手柄」 お給料は大目に振り込んでおくからねー、と上司が続けるよりも早く、悠はクルリと背を向けた。 「まだ疲れが抜けないから、今日はもう帰る」 「お大事にー」 と。 「やー、皆さん休日出勤お疲れさまッス」 ふと入り口の扉から顔を覗かせたのは、クロードとかいうあのうさん臭い男。 彼は部屋の中に踏み込むなり、悠へと向かって頭を下げた。 「こんにちは、悠ちゃん」 「……こんにちは」 浅く頭を下げると、彼は満足そうに手を叩いてカラカラと笑った。 そしてクロードが秋津と顔を見合わせて何か話し始めたのを横目に、昨晩のゴタゴタのせいでずっとここに置いたままにしてしまっていた荷物をまとめ始める。 と、欠伸を連発していた光輝が、手持無沙汰に悠の肩をつついた。 「悠お前、あの人の事嫌いなのかよ? なんかいつも以上に素っ気なかったような」 「……別に、そういうわけじゃない、けど」 言いつつ、何の気無しに胸元のロケットペンダントを握りしめる。 「あれ?」 そしてそこで、ふと彼は驚いたような表情を浮かべて彼女の顔を見つめてきた。 「……何」 「悠、お前……」 「泣いてる?」 「……え?」 いつの間にか自身の両の瞳から、数滴の雫(しずく)がこぼれ出していた。 慌てて拭うも、涙は後から後から溢れてくる。 何も悲しい事など、ありはしないはずなのに。 なのに。 「……何でもない」 とっさに背を向けた悠は、手早く残りの手荷物をまとめ、外へと駆け出した。