結局、悠は翌日の朝になっても目を覚まさなかった。 点滴も何もないまま、ベッドでただ昏々(こんこん)と眠り続ける彼女の姿。 発見時に身に着けていた制服は、洗濯された上で枕元にたたまれて置かれていた。 ――現在時刻、午後五時過ぎ。 「ほんと……大丈夫かしら。数日のうちにここまで何回も倒れるなんて……」 「なんかの悪い病気……とかじゃないよな……? あの堕天使たちに何かされてこうなったんだろうけどさ」 本日は学校が休みである土曜という事もあり、葵と光輝はほぼ一日中病院で過ごしていた。 病人の容体に悪影響があったらどうするのかという事でつまみ出され、個人病室を出てすぐそばの長椅子に腰かけて、時間機で買った適当なジュースをすする二人。 「でもアイツらに何かされたとして、どうしてあの子だけがあんな状態になるのかしら……? ほら、あたしたちは誰も倒れたりしてないじゃない?」 「確かにそうだけどさ……。あーもう、分かんね」 小さく息を吐き、光輝が飲み終えたペットボトルを遠くのゴミ箱へと放り投げた。 投擲するように投げられたそれはペットボトル用の小さな穴には入りきらず、ゴミ箱にぶつかってその場に落ちた。 それを拾い上げゴミ箱に押し込んだのは、水色の寝巻を身に着け、左肩に包帯をぐるぐる巻きにした白斗。 「あ、兄貴。そっちの容体は?」 「出血多量。輸血してやったから安静にしてろ、でも大した怪我じゃない、って言われた」 同じ長椅子に腰を下ろし、着慣れない寝巻を整える。 と、その時。 悠の個人病室から出てきた看護婦が、三人へと声をかけた。 「津堂さん、目を覚ましたみたいですよー」 「……!」 それと同時に葵が相手を突き飛ばし、そのまま病室へと押し入っていく。 「本人の容体が悪化しないように注意を払い、お静かにお願いしますねー」 尻もちをついたまま営業スマイルで告げる看護婦の言葉を聞いているものは誰もおらず、葵の後に続いて二人が病室へ突入すると。 「……」 水色の寝巻の姿のままベッドから半身を起こし、ボーっとした様子で自身の頭に手を当てている悠の姿。 そこへ葵が駆け寄り、そのままの勢いで悠へと抱き着いた。 「ほんとに良かった! アンタ最近何回も倒れてばっかりだから、今度はこのまま一生目を覚まさないんじゃないかって……ぐすっ」 「勝手に殺さないで。あと重いから離れて」 ずびびっ、とすすった葵の鼻水が寝巻の袖に付着し、悠は顔をしかめるがそれに葵が気付く様子はなかった。 「……よう、体調はどうだ?」 言いつつ、光輝がそのままベッド脇に腰かけた。 「……まあまあ。万全とも言えないけど」 そこで髪をかき上げ、小さく息を吐く。 「そう言えば、アンタ結局昨日の昼から何も食べてなかったわよね?」 「多分そのはずだった、と思うけど」 「今から下の売店でなんか買ってきてあげるから、ちょっと待ってて!」 それから葵は「とにかく美味しくて食べやすくて栄養があっておなかが膨れて安いもの!」と叫びながら病室を飛び出していった。 「……クレアがいるとは言え、アイツ一人じゃ心配だから俺も様子を見てくる」 そう言って、白斗は今しがた病室を出て行った葵の後を追いかけていく。 そして、その場に残された光輝と悠。 「そうだ、喉乾いてないか? なんか欲しかったら言えよ。すぐに買ってく――」 「……って」 「え?」 「出ていって。着替えるから」 彼女がポツリとつぶやいた事を光輝が認識するまでには、数秒の時間が必要だった。 「早く出ていって。寝汗かいたからすぐに着替えたいの」 「あ、ああ!」 再度そう言われ、光輝は慌てて病室を飛び出した。 そして。 誰もいなくなった室内で、頭に手を当てた悠はつぶやいた。 「全部……思い出した」 「んー、悠さんあからさまに小食だからなぁ……。何なら喜んでむしゃむしゃ食うんだろ」 結局、三人が同時に売店で物色する形となる。 「とは言っても、あたしも今あまりお金無いのよねぇ……。具体的には、んまい棒が五本しか買えないくらいに」 『……お前それ、相当な金欠だからな……』 「こういう時は、冷たいヨーグルトとかゼリーとかがいいってよく聞くような」 ため息をつく幽霊と、適当に近くに陳列されていた冷蔵菓子をカゴに放り込んでいく白斗。 「んじゃ、これなんかどうよ。お得なバケツプリン」 見ると、市販のバケツより一回り小さい容器にたっぷりとプリンを詰め込んだものを光輝が手に取っていた。 「あ、いいわねそれ。美味しそうだしお得そうだし、冷たいし甘いし」 「よし、じゃあこれと、その他にあれもついでに……」 と、その時。 どこか近くでドン! と音がした。 まるで、上の階から何かが落下したかのような鈍い音。 「……まさか……な」 何か嫌なものを感じながら、光輝は今しがた買い物カゴの中に入れたばかりのスナック菓子を元の陳列棚へと戻した。 「なぁ悠、売店で買ってきたバケツプリン食べるか? お前好きだろプリ――」 精一杯に声を張り上げ、光輝が個人病室の扉を開けると。 頭上の大型の蛍光灯で照らし出された部屋の中には、誰もいなかった。 枕元にたたまれて置かれていた彼女の制服がなくなり、そしてちょうど着替え中だったのだろう、病院の水色の寝間着がベッドの上に乱雑に散らかっている。 そして―― 開け放たれたままの窓から、カーテン越しに冷たい夜風が流れ込んできていた。 「くそッ! 悠が連れ去られた!」 「なんで……? 約束の時間までにはまだあるでしょ……?」 『……!』 白斗がとっさに室内を見回すと、枕元の小物入れが引き出されたままになっており、そこにしまい込まれていたはずだった、あのロケットペンダントも消えていた。 ――現在時刻、午後五時半。 病院を飛び出した三人は、そのまま三手に分かれて周囲を捜索する。 だが一向に悠の姿はどこにも見当たらず、ただただ時が過ぎていく。 「ねぇ、なにか探す方法はないの!?」 捜索中に呼び出した頭上のソウルジャグラーへと向かって、葵が叫ぶ。 「我が輩には何とも……。それにしても、その少女をあやつらがさらう……? にわかには信じがたいが……」 口元に手を当てて、魔人がつぶやく。 そして。 周囲一帯を回り、息が上がった三人が合流したその時。 「さぁ、最後の宴だ。ククッ……楽しもうぞ」 夜の帳の中から抜け出るようにして現れた、堕天使と死神。 「おいアンタら、悠をどこへやったんだよ!?」 叫ぶ光輝に、相手は顔をしかめた。 「何の事だ。……そう言えば一人足らぬな」 「……? アンタらが連れて行ったんじゃないのか……?」 宙に浮いたソウルジャグラーが、相手たちを見据えながら口を開いた。 「だから先ほど言ったろう。こやつらは、そんなまどろっこしい事をする必要はない、とな」 「じゃ、じゃあちょっと待ってよ。今あたしたちで行方不明になったあの子を探してて……」 だが。 「貴様らの事情など知った事ではない」 そう言い放った黒衣の男は、取り出した白銀の剣を構えた。 「一人、怖気づいて逃げ出したか。……デッドエンド、探し出して刈ってこい。命だけで構わんぞ」 その途端、死神の姿が宙に舞うようにして消えていく。 「ま、待てよ! アイツまたどこかでぶっ倒れているかもしれな――」 そんな光輝の叫びを聞かず、残った堕天使は問答無用とばかりに白銀の剣を構えた。 「……!」 「リバイア――」 「……くそっ!」 時を止める事も忘れて右手で木刀を構える白斗、魔獣を呼ぼうとする葵、片手に雷撃を乗せようとする光輝。 全てが間に合わず、その剣撃が三人を捉えようとした瞬間。 堕天使の身体が大きくのけぞり、吹っ飛んだ。 「少々予定が変わった」 三人の前に立っていたその姿は―― 実に数日ぶりに姿を現した、紫苑。 「ここは俺が引き受けてやる。お前たちは行け。悠を探せ」 相手を睨みつけながら、堕天使との間に立ちはだかった彼は短く告げる。 「……何者だ?」 突然の乱入者に、堕天使は不機嫌そうに顔をしかめた。 だが紫苑はそれも無視し、再度口を開く。 「何をしている。早く行け」 「……あ、ああ。サンキューな!」 三人が駆けだすと同時に、その背後で剣撃と拳が激しくぶつかり合う音が響き渡り始めた。 「も、もう。何なのよ! 来てくれたのは嬉しいけど、だったら最初から来なさいって……」 『……』 ぶつくさ言いつつも、夜の裏路地を駆け抜ける葵。 その後ろを追うように走りながら、白斗は右手で数度木刀を振ってみた。 「なぁ兄貴、その左肩って大丈夫なのかよ?」 「片手だけ使えれば何とかなる、はず。利き手は無事だし」 「……。ならいいけどさ。俺たちだけであの死神と戦うのかぁ……」 「紫苑が来るまで持ちこたえられれば何とか……」 さほど自信なく白斗がつぶやいたその時、幽霊もまた小さくつぶやいた。 『……安心しろ、葵。言っただろ? お前が危ない時は、いつでも私が守ってやる、ってな』 気丈に笑う幽霊を見つめ、葵が口を開いた。 「……ダメよ」 『……え?』 「今回もまたあの死神に勝てなくてあたしの魂が持っていかれそうになった時、アンタ入れ替わる気でいるでしょ」 『……』 「ダメよ。やったら絶対に許さないんだから」 それから彼女は、自身を鼓舞するかのように拳を握りしめた。 「悠の事もあるし、絶対に負けられない」 そして三人同時に次の路地を曲がって、開いた国道に出たその時。 ゴウッ、と強い風が三人を襲った。 「え――」 まるで台風の中心部にいるのかと錯覚してしまうような感覚。 黒くて黒くて黒い。ただただ漆黒の闇のようなどす黒い暴風が、辺りに吹き荒れる。 周囲の街路樹の葉や路上に転がるゴミが、無理やり引きちぎられるようにして風の中に吸い込まれていく。 「なんだよ……これ……」 三人同時に呆然と立ち尽くし、その景色をただただ眺める。 「リバイアちゃん……じゃないわよね、これ……」 「……うむ。魔界の者の気配は一切感じられぬな」 「くそ、マジで一体何なんだよ……って、おい、あれ!」 光輝が指した一点。 十数メートル先の路上、つまり黒い暴風が収束していく地点に、誰かが立ち尽くしていた。 「……!」 あたかも「台風の目」とでも言える場所に立っているその人物は。 死神はもちろん、堕天使ですらなかった。 石田やクロードでさえなかった。 そこにいたのは。 直径一メートルほどの、黒い球体。 それが空中、地上を問わずに瞬時に生まれてはまた瞬時に消えていく。 黒い球体で覆われていた地面は一瞬にして削り取られていき、虚空へと吸い込まれていった。 消えると同時に、そこには周囲の空気が流れ込むようにして収束していく。 一連の動作が、瞬きをする時間もないほどの一瞬のうちに、何度も何度も繰り返され。 周囲はあたかも暴風域の中心であるかのようで。 その景色を、光輝たちは言葉もなくただ見つめ続けていた。 そして光輝は、震える声を絞り出すかのように吐き出した。 「嘘だろ、おい……」 信じられなかった。 そんなはずはない、と。 だから、彼は。 名前を呼んだ。 この渦の中心で立ち尽くしている、自身の相方(・・)の名前を。 「悠ぁッ!!」 だがその呼びかけに、彼女が振り向くことはなかった。 その彼女の背後に、音もなく忍び寄る影が一つ。 処刑鎌を構えた死神は、一瞬のためらいもなく鎌を悠の首筋に振り下ろそうとする。 「邪魔。どいて」 死神を一瞥(いちべつ)する事すらなく悠が手をかざすと、黒い球体が死神の周囲に新たに生まれた。 相手が手にした鎌を目にも止まらぬ速度で振り回すと、周囲の黒球は全てが霧散して消え失せる。 だが。 「……」 即座に生成され直した黒球が、次から次へと死神の持つ大鎌を取り囲むようにして集まっていく。 死神も大鎌を振り目にも止まらぬ速度で打ち消していくが、それよりも黒球の生成速度が上回っていた。 そして、いつしか。 パキン、と音がし、死神の持つ鎌が粉々に砕け散った。 その直後、黒球が一斉に死神の身体そのものを侵食するように集まっていき。 そして。 「うるさい。消えて」 次の瞬間、死神の身体はまるで黒球に飲み込まれたかのように跡形もなく消え失せた。 ――死神(デッドエンド)、撃破。 「なんで……なんでだよ……っ!」 叫んだ光輝は、無人の道路上に立つ悠の元へと駆け出していた。 いつしか黒球の生成は止み、辺りには怖いぐらいの静寂が漂っていた。 「……」 だが悠はまるで背後からのその声が聞こえないかのように、ある一点を見つめ続けていた。 そして、そこから現れたのは。 「あーあー。悠ちゃん、流石にやり過ぎじゃないッスかねぇ?」 この惨状を目の当たりにしても、気楽に飄々と笑うクロード。 そしてようやく悠の元へと駆け寄った光輝は、その肩を掴んだ。 「なぁ、おい! お前、いつからそんな――」 言い終わらないうちに、彼は相方の手で道路上に突き飛ばされた。 それと同時に、悠の周囲に新たな黒球が生成される。 「光輝。離れていて。もしくは絶対にそこから動かないで。もし巻き込んでしまった場合、」 そこでようやく振り向いた「相方」の表情は。 「あなたを、殺さずにいられる自信が無いから」 光輝が今までに見た事の無い、氷のように凍てついた冷たい目だった。 ――何もかも思い出した。 ――あのゴールデンウィークの最終日に起こった出来事も、あの日感じた強い感情も。 ――今、何かに呼び起こされるかのように、全く同じものを感じている。 ――ああ、この感情は。 ――『怒り』だ。 ……見つけた。 陽も落ちかけて周囲が赤黒い夕闇に包まれた、五月の初旬のある日の夕刻。 買い物帰りの主婦や遊び歩いている学生らしき集団など雑多な群集が行きかう商店街の中心部で、悠は小さくつぶやいた。 その目が見据えるのは、あの時からずっと追いかけ、探し続けていた男の姿。 あの時とはいつだろう、と考え、何故か思い出せない事に気づいた。 だが、何でもいい。これですぐ終わるのだから。 そう心中で吐き出した悠は、改めて眼前の標的を睨み付ける。 だがしかしここで焦って飛び出せば、周囲の人ごみに紛れて逃走を許す事にも繋がる。 自身の内側からの声が告げる忠告に耳を傾けながらも、自分自身に冷静になるように呼びかける。 そんな中、視界内の標的がふとその動きを止めた。 気づかれた? ……いや、今がチャンスだ。 もう二度と、絶対に逃がさない。 この手で、必ず、殺す。 未だ動かないままの標的の真後ろに立った悠はそうつぶやき、クロードなどと呼ばれる男の背へと向けて手を伸ばした。 そして。 一瞬の後、クロードの立っている場所の周囲に大量の黒い球体が生まれ、直後空間ごと削り取り始めた。 道路上で尻餅をついたまま一向に動けない光輝の眼前で、悠がクロードへと掲げた手を向ける。 それと同時に黒球が相手の身体にまとわりつくが、黒球が空間を削り取るよりも早く相手は抜け出てしまう。 「よ、ほっ、はっ……と」 実に軽い声を上げながら、まるで曲芸か何かのように黒球を全て回避していくクロード。 「悠、人殺すのは駄目だって……!」 道路上でへたり込んだ光輝が、精一杯絞り出した言葉は。 「別にいい。そんな事」 あっさりと跳ね除けられる。 「そんな事って、お前……!」 「だって、私――」 「もう既に一人、殺してるから」 そこで彼女は。 一瞬だけ、しかしはっきりとどこか哀しそうな笑顔を浮かべてから光輝を見返すと、すぐに表情を元に戻して眼前の相手へと向き直る。 「一人殺した……って、一体いつの事だよ……っ!?」 「ねぇ、光輝。葵。兄さん」 どこか荒くなり始めた息を整えるかのように目を閉じ、それでいて黒球による攻撃は止めないまま悠が口を開いた。 「誰か……覚えてないの? 私たちは、四人の集まりじゃない。五人の集まりだったって事を」 「え……?」 一体何のことを言われているのか分からずに、葵の口から疑問の声が漏れた。 「私たちの仲間に、もう一人いたの。ちょうど一年前までは」 「クレアの事か? いや、お前、何を言って――」 その途端光輝の脳裏に、昨日の学校からの帰りに時雨と交わした会話が思い浮かんだ。 「いや、いた! 確かに中学三年生の頃の俺たちの間にはもう一人仲間がいたさ! でもアイツはいつの間にかいなくなっちまって……」 「誰か、覚えてないの? 『彼』がいつの間にかいなくなった理由」 「……」 その言葉に、三人が同時に言葉に詰まる。 「彼は、その五人目は……私が殺したの」 言いながら、胸元から取り出したロケットペンダントを掴む。 「……悠、そのペンダントって……」 「襲撃犯のものじゃない……。他の誰でも、なく、私自身の、持ち物。……ずっと、忘れていた……けれども……」 悠の呼吸はどんどん荒くなり、そして。 「……私が殺した……あの子の形見」 そこまで言うと、唐突に。 「……っ」 糸が切れたように崩れ落ち、それと同時に周囲の黒球も全てが雲散霧消した。 周囲に残るのは、黒球で削り取られたアスファルト上の無数のクレーターの数々。 あの日以来何度も見かけた、ぽっかりと空く黒くて丸い大穴。 そしてその大穴に囲まれるようにして、まるで熱病にでもかかったかのように赤い顔で荒い呼吸を繰り返している悠の姿。 その時白斗の脳裏には、数日前に紫苑に言われた言葉がフラッシュバックしていた。 「何にしろ、俺からは詳しい事は言えん。だが……」 そこで彼は一瞬だけ何かを考え込む色を見せ、すぐに口を開いた。 「そうだな、あえて言うならば……この件に犯人とでも呼ぶべき人物はいない。探すだけ無駄だろうな」 「犯人とでも呼ぶべき人物がいない、つまりこの事件は悠自身が犯人だって事か……!」 今になってその結論を悟ったが、だからと言って何も出来ずに、葵と共にただその場に立ち尽くす。 「……ふむ」 宙に浮いた魔人が、ようやく口を開いた。 「この彼女は……以前の君と同じように精神力を使い切っているな」 「え……?」 「この状態は、精神力を使い切った時特有のものなのだよ。ちょうど先月の君と同じように」 「精神力!? そんなもの、悠がイージスを使ってる時は一切――」 と。 「やー、やっと落ち着いてくれたッスかねぇ。悠ちゃん、毎回毎回クオリアを極限状態まで使っちゃうッスから。全く困ったものッス」 どこか困ったように頭をかきながら近づいてくるクロードと……その背後に立つ石田の姿。 「……あんた達、どうやって悠を病院から連れ出した?」 状況が上手く理解できずに、木刀を片手で構えつつ白斗が問う。 「いやぁ、僕たちは特に何もしてないッスよ?」 いつもの笑顔を顔に張り付けたまま、クロードは手を振る。 「悠ちゃんが自分の意志でここまで来たンスよ。まさかちょっと姿を見せた程度で、病室の窓から飛び降りながら襲撃してくるとは思わなかったんス」 「しかも落下の衝撃を彼女の異能力、イージスで打ち消しながら、とは。いやはや、顔に似合わず全くもって無茶してますよ、彼女」 クロードの言葉を引きついだ石田が、やはりにこやかな笑顔を浮かべたままその隣に立った。 「おいアンタら! 悠に何をしたんだよっ!?」 耐え切れなくなったのか、ついに光輝が叫んだ。 「だから、僕は何もしてないッスよ」 「だったらなんで悠はこんな――」 「『サイキック』。通称サイは元々精神力を多大に使うクオリアなんス。ここまで乱発すると、それはそれはもう脳が焼き切れそうなくらいの負担がかかっちゃうんス」 手をポンポンと叩きながら、サングラスの男が続ける。 「彼女、今はおそらく地獄のような苦しみの中で彷徨ってるッスよ。まあ、命に別状はないし、少し休めば元通りだから安心していいッスけど」 「ハァ!? コイツはクオリアなんか持っちゃいない! コイツが使えるのは盾のイージスだけで……」 「それが持ってたんスよ」 聞きわけの悪い子どもに困っているような表情を浮かべ、クロードが短く告げた。 「どうしてそう言い切れるんだよ!?」 「そりゃあ、だって……」 「僕があげたんスから。1年前に」 「なっ……!?」 「葵ちゃんには言ったッスよね? 僕がクオリアの管理人、そこのソウルジャグラーくんと似たような存在だって事を」 どこか世間話でもするかのような気楽さで、葵へと視線を向ける。 「……」 「そして、白斗くんも知ってるッスよね? だってその『アクシスクロッカー』、通称クロッカーは僕があげたんスから」 「……ああ」 白斗が小さくうなずいたのを確認すると、クロードは大きく手を広げた。 「僕が悠ちゃんにあげた、空間破壊のクオリア『サイキック』。ただ、悠ちゃんはこのクオリアを嫌っていて、今まで絶対に使おうとはしなかったみたいなんス」 「……だからっ……、そんなの俺は知らないって……っ!」 「……。我が輩は見ていたぞ」 それでも納得できないという表情を浮かべる光輝に、宙に浮かぶ魔人が告げた。 「二日前、海皇の火球がそこの少女が作り出した緑色の盾を飲み込んだ時の事だ」 「……? 確かそれって山羊悪魔の時の……」 「うむ。盾が火球に破られ、君たちまでもが飲み込まれようとした瞬間、どこからともなく現れた黒い球体が、壊れた緑色の盾ごと火球を消し飛ばしたのを我が輩は確かに目撃したぞ」 「……!」 「おかしいと思ったのだ。地上の人間の力程度が、ソウルから解き放たれた海皇の火球を防げるものかと」 満足そうにうなずく魔人の下で、石田がふむと手を打った。 「おそらくそれは、極限状態の中で無意識の内に彼女がサイを使ってしまったのでしょう。確か、その直後に彼女は倒れてしまったんでしたっけ?」 それから彼は、やれやれと首を振った。 「それにしても悠さんにも困ったものです。僕が何度記憶を消しても、クロードさんを見かける度に毎回フラッシュバックして全てを思い出してしまうなんて」 「おい、あんたの異能力って……」 詰め寄った白斗に、笑顔で石田が答える。 「はい。『歪んだ記憶(ストレイン・ストレージ)』、通称『ストレ』と言います。要は文字通りの記憶消去ですね。発動条件は対象の頭に触れるだけです。ただ出力に難がありまして、強すぎる記憶は、何度も消さないと完全には消しきれないんですよ」 何のためらいもなく、浮かべた笑みを一片たりとも消さずに彼は続ける。 「そして消した記憶は脳内で勝手に補完されるので、よほどの事が無い限り記憶の欠落に気付く事はありません。……ああ、覚えなくていいですよ。彼女の記憶を消した後、君たちにも同じく忘れてもらいますから」 「……!」 「彼女にはフラッシュバックを繰り返すほどに、よほど強烈な記憶があったのでしょうね。だから今回こそ完全に消してあげますよ」 「悠ちゃんが僕を狙う理由は確か……僕があげたサイで、誰かを殺してしまったから、だったッスかね?」 仰向けで荒い呼吸を繰り返している悠の頭に、石田が片手を伸ばし―― その手は途中で白斗に掴んで止められた。 「おや、どうしました?」 「……あんた、もしかして俺たちの記憶も既に何かしら消しているんじゃないか? さっき悠が、俺たちは忘れている人物がいるって……」 「ええ、もちろん」 笑顔で告げた石田に、白斗と光輝が同時に構えた。 「……そんなの信じられるかよ! アンタが俺たちの記憶を消したなんて、そんなの……」 「ふむ……。じゃあ葵ちゃん、僕から質問ッス。とってもとっても簡単なはずの質問ッス」 世間話でもするような気軽さで、葵に目をやったクロードが手をポンポンと叩く。 「君はクレアちゃんと、いつどこでどうやって出会ったんスか?」 『……言うなッ!!』 クレアが叫ぶが、葵は小首を傾げながら幽霊を押し留める。 まるで二人の出会いが、何か恐ろしいものであるかのように震える幽霊を。 何故、そんな当たり前の事を怖がる必要があるのだろう。 そして葵は、クレアと出会った日の事を思い返しながら口を開いた。 「どうやってって、そりゃあ――」 「――え?」 何も、思い出せなかった。 記憶の中に残るのは、自分の背後霊であるクレアはいつの間にか自分が知らないうちにいて、その事を自分は何の疑問も持たずに(・・・・・・・・・)すんなりと受け入れていたという事実だけ。 そして記憶の中から、クレアと出会ったその経過だけ(・・・・・・)がすっぽり抜け落ちているという不自然さに今まで一切気づかなかった恐怖。 「……クレア、もしかしてアンタ何か知ってるの……?」 震える声で、背後の幽霊を振り向く。 『……』 だが幽霊はそれに対して何も答えずに。 『……。……済まない』 ただ、そう返すばかりで。 「リバイアちゃんが言ってた、あたしの中の異質な空洞って、まさかこれのこと……っ!」 「白斗くん、僕があげた時間停止のクオリアについてッス。先月使うよりも前に、数分の累積が残っていたと思うッスけど……その前、どこで使いました?」 「……っ」 思い出そうとしても一向に記憶が動かない問いを投げつけられ続け、頭が激しく混乱する中、白斗は石田とクロードの二人から飛び退った。 「じゃあ、そろそろいいッスか? どっちにしても忘れちゃうんスから、ここでいくら話してもぶっちゃけ時間の無駄ッスね」 「はい。では今度こそ悠さんには全部忘れてもらいましょうか。綺麗さっぱり、もう二度と何かのきっかけで嫌な記憶を思い出したりしないように」 「待てよッ!!」 「お願いしまッス、石田くん」 光輝の声など意に介さないかのように、石田の手が荒い呼吸を続けている悠に伸ばされ―― 木刀が振り下ろされる寸前に引っ込められた。 「……。どうしたンスか、白斗くん?」 「待った。あんたたちにはまだ聞いていない事がある」 「動くな。そこから一歩でも動いたら……手首の骨を砕く」 右手で構えた木刀を、眼前の石田の喉元に突き付ける。 「まずはあんたからだ。記憶さえ消されなければ、どうとでもなる」 「おやおや。僕は暴力的な事は嫌いなのですがね」 ため息をついた石田が、そのまま両手を上げた。 と、その時。 「戻りが遅いから見に来てみれば……なるほど、そういうわけか」 どこからか現れた紫苑が、抱えていた何かをその場にドサッと放り投げた。 見ると、息も絶え絶えなまでに痛めつけられた堕天使の姿だった。 「ば、馬鹿な、その能力は地上の者ではあり得ない……! まさか、我らと敵対する魔女『リバースクイーン』の――」 相手がそこまで言った時、紫苑は舌打ちしながら相手から奪ったのであろう白銀の抜き身の剣を、相手の胸元にためらわず突き刺した。 鈍い悲鳴と共に、動かなくなった堕天使の身体がゆっくりと闇夜に流れ出るようにして消えていく。 ――堕天使(フォールン)、撃破。 それと同時、葵と魔人の首筋に浮かんだ紫色の傷跡が、跡形もなく消滅した。 だがこの場でそれを喜ぶものは、もはや誰もいなかった。 「……」 改めて周囲を見回した紫苑は、倒れ伏した葵、そして石田を交互に見つめ小さく舌打ちした。 「ねぇ、そこの変態神父があたしたちと悠の記憶を消そうとしてるの!」 「……らしいな」 心底面倒そうに息を吐き、紫苑は腕の骨を鳴らした。 「……」 隣に立った彼の加勢を得て、眼前の二人とどう立ち回るべきかと白斗が無意識の内に動き方を考えていると。 唐突に、紫苑が白斗の腹部を掌底気味に打ち抜いた。 「が、あっ……!」 「残念ながら俺は……こちら側だ」 もう片手の親指で石田とクロードを指し、よろめいた白斗を続けて繰り出した膝蹴りでガードレールへと吹き飛ばした。 一気に絞り出された後の肺の中に残った空気をかき集めるように、白斗は声を絞り出した。 「……あっ、アクシス――」 「おっと」 何かを思い出したかのようにクロードが指を鳴らす。 その直後、時が止まる事はなかった。 「今だけ管理者権限で一時的に回収させてもらったッス。ああ、後でちゃんと返しておくから、その辺は安心して欲しいッスね」 「だ、そうだ」 ふらつきながらも立ち上がった白斗が構えた木刀を、拳の一撃で微塵に砕く紫苑。 「なっ……」 「悪いな。……そこで少し寝ていろ」 再度の掌底を顎に打ち込むと、そこで白斗はその場に崩れ落ちて動かなくなった。 「何するのよ! クレア、やっちゃって!」 だが。 『……済まない、葵』 幽霊は一向に動かず、地面を見つめていた。 『私も……この場では手を貸せない』 「なんで……。なんでなのよ……!」 そう葵が叫んでも、辛そうに首をただ振るだけ。 「危ない時はどんな時でもあたしの事、守ってくれるって言ったじゃない……!」 それから葵は天に手を掲げ、叫んだ。 「くっ……来なさい、リバイア――」 その瞬間、葵の意識が揺らぎ、気が付くと彼女は自身の背を見つめていた。 いつの間にか、クレアが葵と人格を入れ替えていたと気づいたのは、それから数秒後の事だった。 『え……?』 「本当に、済まない……!」 どこか泣きそうな顔で、彼女はただ吐き出す。 「ねぇ、光輝くん。葵ちゃん。もう一つ質問ッス」 この期に及んでも飄々とした笑みを崩さないクロードは、そこで大きく手を広げた。 「協会支部は、自然発生する超常現象への対処が本当のお仕事。もちろん知ってるッスよね」 「……ああ」 今さら何を聞くのだと、光輝が疲労を色濃く残したまま相手を見返した。 「でも君たち、自然発生由来の超常現象を何かしら、今までに見たことがあるッスかね?」 「それは……」 「じゃあ、どうしてそう思ったんスか?」 「……ねーちゃんがそう言ってたから……だろ」 「そう。秋津さんが言った以外に、根拠なんて無いんスよ」 クロードは広げた手を、光輝の頭の上に載せた。 「そして……もし仮に、秋津さんが君たちに嘘を言っていたのだとしたら?」 その途端、まるで金縛りにあったかのように光輝の身体は動かなくなる。 それと同時に、石田が近づいてくるのが視界の端に見えた。 ゆっくりと、その片手を伸ばしながら。 「待てよ! 俺たちは一体何を忘れているんだよ!?」 「君は本当に疑問に思わなかったんスか?」 最後の餞別だとばかりに、楽しそうにしゃべり続けるクロード。 「君たちはどうして、この協会という組織に所属しているんスか? そのきっかけは? そもそも、この組織は一体何なんスか?」 「……」 「もちろん、ただの便利屋じゃないッスよ。それだったら、異能力なんて物騒なシロモノ、必要なはずがないッスし」 そして、相手の笑みが一層より濃くなった。 「ねぇ? どうして、今まで一度も疑問に思わなかったんスか?」 「何でって、そりゃあ――」 ――あれ、何でだ? 考えても一向に答えは出ないまま、いつしか石田の手が二人の頭を掴んだ。 「待てよ! まだ――」 そして、光輝たち四人は。 この場で起きた全ての出来事を忘れた。